チヌフカセ釣りの名手・大知昭(おおち あきら)さんのチヌ釣りのルーツや数々の栄冠を手にしたトーナメントへの取り組みなどを連載で紹介! ※プロフィールなどは2014年当時のもので現在と異なるものもあります。写真は主にモノクロとなります。ご了承ください。
素材、製法・・・試行錯誤の日々
大知(昭)さんの実弟・豊さんが「豊ウキ」作りに精を出してどんどん進化させていたころ、アドバイザー的な役割を担っていた大知さんにも自分なりの「理想のウキ」が見えはじめた。
「ちょうどそのときはグレ釣りにも夢中で、とにかく糸抜けがいいウキが欲しいと思ってたね。これがスーパーボールにガラス管(第5話参照)のコンビにつながったんだけど、しばらくは内緒にしていたんだよ。豊にバレたときには怒られたね」
と大知さん。
「こんないいものをひとりで使っては困る!」と豊さんに言われ、2人はガラス管を搭載したウキの制作にとりかかった。
数ある素材の中から選んだのはカリン。年輪の位置によって安定感や浮き方が微妙に違ってくるので、水面つらイチ(ウキのトップが水面から出るか出ないかぐらい)の状態になるように、素材選びには相当気を使ったという。
色はパール一色塗り。透明なスーパーボールだと「海面でキラキラ光ってグレが警戒するのでは?」という思いから水面を泳ぐサヨリの腹の色に似せたのだという。 遠投性、安定性、そして抜群の糸抜けを誇った『大知トバシ』(写真1)は好調だったという。
「でもね、とにかく材料費がかかるウキでね。サラリーマンの自分たちのこづかいじゃ、量産とはいかなかったんだよね」
と当時を思い出した大知さんは苦笑い。これがネックとなり、しばらくしてこのウキの制作は断念することになったという。
「じゃあ、豊ウキにガラス管を入れてはどうだろうか?」、大知さんと豊さんはそう思い立った。行動派の2人は思い立ったが吉日とばかりにすぐ制作に乗り出したという。
まずは材質選び。それまで作っていた「豊ウキ」は桐材。だが桐はやわらかく衝撃でへこみやすいため、ガラス管と組み合わせるのは不安だったと大知さん。非常に硬いカリンが思い浮かんだが「カリンは高いし……」とすぐに断念。
そこで2人が注目したのはメイプル材。この材はカリンほど比重は大きくないが、桐よりは重く硬い。しかし円錐ウキに用いるには浮力と重心の位置の調整のため中空構造にする必要性が出たという。
そこで豊さんがとった工法は、材をウキの上下に分けて別々に削ってから、下側の部分の内側をえぐって合体させるというもの。この手法で中空構造を実現した(写真1)。
それにガラス管を接着剤で固定し、初のガラス管内蔵となる円錐ウキが完成した。
新生大知ウキの完成!
2人はさっそくこのウキを持って釣りに出かけた。ところが、期待に反してしっくりこなかった。そしてなぜが道糸がザラザラになっていた。
「ショックだったね。ガラス管の一部が細かく割れていたんだよ。でも自分も豊も磯に当てた記憶はない。2人でなんでだろう? って不思議さと不安を覚えて帰ったね」
と大知さん。
それから数日後のこと。豊さんが寝ていると、どこからともなく「ピキンッ、ピキンッ」と無気味な音がしたという。調べてみると、なんとウキに仕込んだガラス管にヒビが入る音だったのだ。
メイプル材の上下2分割構造のこのウキは、上側と下側の材を接着剤で固定する。このため上下で材の収縮やねじれの状態が異なるため、上下をつなぐように内臓されているガラス管に負荷がかかって、ガラスが割れてしまうのだった。
せっかくのガラス管内蔵ウキ完成かと思った矢先、2人は再び考えさせられることに。 どうすればガラス管を保護できるだろうか? 2人の試行錯誤がまたはじまった。
いろいろ試した結果、ガラス管を包むようにひとまわり径の大きな塩ビパイプを入れることを思いついた。実際に試作してみると木材のねじれを塩ビが受け止めるので、ガラス管には影響なし。しかもこの方法ならメイプルでなくとも桐材が使える。桐材で作っていた豊ウキのノウハウもあって、浮力や重心の調整が容易になった。
「すごいウキができたと思ったよ」
大知さんと豊さんは新生「大知ウキ」に大いに満足し、そのウキにトレードマークを入れることに決めた。 「自分たちは広島湾で、目の前にある宮島に育ててもらった」との思いから、宮島(嚴島)にちなむもの、シカ、モミジ……そして海に浮かぶ嚴島神社の鳥居が思い当たった。
こうして新生『大知ウキ』が完成した(写真3)。
ちょうどそのころ、徳島の江頭弘則氏がスルスル釣りを開発。各大会ですぐれた結果を出していた。2人は糸滑りのよい『大知ウキ』に「これまで以上に軽い仕掛けでスルスル釣りができるんじゃないか」 「浅ダナから深ダナまで、長時間サシエをマキエに同調できるんじゃないか」 「違和感なく食い込むんじゃないか?」など多くの期待をよせた。
折りしもグレ、チヌとも警戒心が強くなり、食い渋りが顕著になりはじめた矢先。名手各人は、いかに魚への抵抗をなくすか、いかに海中を立体的に攻めていこうかと思案していたころだった。
ガラス管を内蔵した『大知ウキ』。この秘密兵器を持って大知兄弟は、強豪ひしめくトーナメントに再び参戦していった。G杯、報知、JFT……。『大知ウキ』は2人の期待を裏切らなかった。
「自分はモノを考える人。豊はそれを工夫して使いこなす人。自分にはできないことで結果を出す。だから一番の釣友であり、一生のライバルなんだよ」
大知さんは、豊さんとの関係をよくこう評する。
『大知ウキ』で躍進!
「大知ウキ」が完成した1995年。豊さんは大知さんとともに歩んだこれまでの努力が、結実した1年を迎えたという。 前年の1994年、豊さんは念願のG杯チヌ全国大会(第13回大会/小豆島会場)に初出場したが、3回戦で不運のジャンケン負けを喫した。しかし同年の中国地区予選で優勝、2年連続でG杯出場権を得ていた。
そして迎えた1995年5月、「第14回G杯争奪全日本がま磯チヌ選手権」がはじまった。場所は昨年と同じ小豆島。豊さんは、過去に幾度となく訪れた兵庫県の家島諸島に比べて、小豆島はチヌの魚影が濃いこと、しかも比較的浅いタナで食ってくることを経験していた。2度目の出場という気やすさもあり、リラックスした理想的な精神状態で試合に臨めたという。
1回戦、2回戦は50cmオーバーを含むチヌ数匹を確実に仕留め、順当に勝ち上がった。
釣り方は『大知ウキ』の特性を生かした浅ダナからの軽い仕掛けでのスルスル釣りだ。ハリスを5~6ヒロ(約7.5〜9m)とって道糸と直結。ハリスの中にウキをセットし、黄色のゴム管をウキ下1.5ヒロほどの位置に付ける。オモリは、ガン玉5号をハリ上20cmの所に装着、口ナマリ仕掛けとした。
この仕掛けをポイントに「ポチャッ」と放り込む。サミングはしない。マキエをかぶせる。グシャッとなっていたハリスが延びていく。ハリスがゴム管まで延びると、今度は仕掛けが立った状態で、マキエの帯の中をゆっくりとサシエが先行しながらタナが入っていく。いわゆる「タテの釣り」を実践した豊さんは、黄色のゴム管が見えなくなるまで目で追い、最大で竿1本半までタナを探ったという。
こうして3回戦もなんとか勝利し、翌日は準決勝にも勝利。豊さんは夢に見たG杯決勝の舞台へと進出。その舞台は小豆島「金ヶ崎」、豊さんが1回戦で50cm級を仕留めた磯だった。「ここだったらきっとチヌは出る!」との期待に反し、晴天、ベタ凪、引きに入った潮、食い渋りは避けられない状況だったという。
豊さんは今大会好調の浅ダナからのスルスル釣りをここでも実践した。遠投して当たり潮に仕掛けを乗せ、手前のシモリ際で仕掛けをなじませると黄色のゴム管がイメージ通りに引き込まれた。しかしなぜか上がってきたのはグレだった。
第1、第2ラウンドを過ぎて、豊さんは他魚ながら内海では良型といえる30cm級のグレを2匹キープして、ほかの選手をリードしていた。しかし、誰かがチヌを1匹仕留めた時点で、他魚は無効になる。
豊さんは右端に入った第3ラウンド目に勝負に出た。右奥の干出た岩に上がり、これまでほかの選手がマキエを入れていない砂地の浅場を遠投で攻めた。ところがここでも食ってきたのは、なぜかグレだった。そして試合終了。
豊さんは軽い仕掛けのスルスル釣りを駆使したが本命は出ず。しかし他魚ながら他選手を突き放したグレ4匹の釣果。兄の昭さんとともに挑み続けたG杯優勝の栄冠を、ついに勝ち取った瞬間だった。
帰港後、豊さんは広島にいる昭さんに真っ先に優勝の報告をした。昭さんは、豊さんのコツコツと積み上げる努力が身を結んだこと、当時実力ナンバーワンと言われていた選手に勝っての決勝進出だったこと、なにより自分がなしえなかったG杯優勝を、一緒に努力してきた弟が勝ち取ったことが心からうれしかったという。
「これが自分たち兄弟の長いトーナメント人生で、大きな節目となるできごとだったね」
と大知さんは振り返る。
【第8話】に続く
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