チヌフカセ釣りの名手・大知昭(おおち あきら)さんのチヌ釣りのルーツや数々の栄冠を手にしたトーナメントへの取り組みなどを連載で紹介! ※プロフィールなどは2014年当時のもので現在と異なるものもあります。写真は主にモノクロとなります。ご了承ください。
報知グレへの挑戦
グレ釣りを知ってから、大知さんは弟の豊さんとともにチヌ釣りはもちろんのこと、グレ釣りにも熱心に取り組むようになった。そして数年でその成果は現れた。G杯チヌ、G杯グレの中国予選に毎年のように勝ち残るようになっていたのだ。
そんな2人にある大会へのお誘いがかかる。
「報知グレ釣り選手権」
1970年にスタートしたこの大会は2013年現在も続いており、もっとも古くて権威のあるグレ釣りトーナメントとして知られている。現在「名人」と呼ばれる人の多くはこの大会を経験しているほどだ。
ちなみに大知さんが参戦した当時は、そうそうたるメンバーがひしめく群雄割拠の時代だったという。
「これはとてもいいチャンスをもらったと思ったよ。多くの名人と試合で竿が出せるわけだからね。緊張はあったけど、とにかく釣技を実感してやろうと豊と参戦させてもらったんだ」
そして1990年。第20回大会に大知さんは豊さんと初出場。G杯以外の大会は初めてで、会場である愛媛県日振島で竿を出すのも初めてと初めてづくし。
現在のように交通環境も整備されていなかったので、行き道も地図とにらめっこで悪戦苦闘しながら向かったことを思い出すという。
大会参加選手はグレ釣り王国の四国にくわえ、和歌山、大阪を中心とした関西の選手が中心だった。大知さん兄弟は中国地区で、ほかに3名の選手(いずれもグレ釣り名手)という顔ぶれ。
当時の精鋭部隊だが、「よその地区から見れば見慣れぬ顔ぶれが出てきたかな?」という程度の認識だっただろうと大知さんは回顧する。
この大会に際し、大知さんは特別な準備をしていなかった。山口県柱島で豊さんとともにそれまで取り組んできた「完全フカセ仕掛けで遠投し、グレを浮かせて釣る」を最大の武器に戦うつもりだったのだ。
「けっこう自信があったね。でもこの日、自分は手返しの重要性を思い知ることになったよ」
こうして大会がスタート。大知さんは1回戦、なんとか規定サイズ1匹を手にして勝利したが、2回戦で和歌山の名手と対戦。600gの差をつけられ敗退となった。大知さんがあまり重視していなかった手返しのよさがもろに結果に現れた試合だった。
一方の豊さんは好調だった。3回戦こそ僅差だったが、準決勝では大差をつけて圧勝し、決勝へと駒を進めた。そして決勝では大知さんを破った選手と対戦。480g差で敗れたものの、初出場にて準優勝という、十分すぎる成績をあげた。その勝因は「遠投」。手前にエサ盗りを集め、沖にマキエと仕掛けを遠投してグレを狙ったのだった。
宮川明氏との運命の出会い
翌1991年の第21回大会に大知さんは兄弟で再び出場。仕掛けは全遊動仕掛けの完全フカセと昨年と同様だが、マキエはさらなる遠投のため集魚力が強くてまとまりがよい『グレパワー』を採用していた。そして大知さんは前回大会で学んだ「手返し」の重要性を胸に大会へと臨んだ。
今大会では前回準優勝を飾った豊さんの躍進に期待がかかっていたが、1回戦で名手・山元八郎選手と対戦し、圧倒的な差で敗退。
「すべてにおいて次元が違ったと豊は言ってたよ。それはそのあと自分も思い知ることになったんだけどね」
と大知さんはそのときを振り返る。
大知さんは、1回戦、2回戦ともに遠投釣法が冴え、両試合とも4kg以上の釣果をたたき出して圧勝していた。手返しを重要視した試合運びで結果が出たこともあり、勢いに乗っていた。しかしそこに大きな壁が立ちふさがった。名手・宮川明選手だ。
大知さんは宮川選手のウワサを聞いてはいたが、釣りを見るのはこの日が初めてだった。
「自分の手返しなんて甘いとしか言いようがなかったよ」
試合後の大知さんは自分が井の中の蛙だったと痛感。なんと宮川選手12.7kg、大知さん7.8kgと実に5kgもの差をつけられて敗退したのだ。活性が高いときにいかに効率よくグレを取り込むだけでなく、釣り座の構え方、ガン玉の使い方など総合力において差が出たのだった。
「ガン玉ひとつでこんなに差が出るのか……」、大知さん兄弟は目からウロコが落ちたという。
そして帰りの船の中で宮川選手と初めて会話。
「負けたらいつもすごく悔しいんだけど、この日はすがすがしかったよ。接戦ではなく完敗だったからだろうね。それに宮川さんは自分たちの質問に熱心に答えてくれたんだよ」
と大知さん。
宮川さんは包み隠さず教えてくれたという。たとえば荒れた海に仕掛けを速くなじませる工夫としてわざと太いハリスに変えていたなど、次回対戦することがあれば自分が不利になるかもしれない情報まで教えてくれたという。
大知さんは話をしているうちに「自分と似ている!」「この人と長くつきあっていきたい!」と感じ、豊さんも同様に宮川さんの人柄にすっかり惚れ込んでしまったそうだ。
「翌日はさらにすごいものを見せてもらった。宮川明が自分たちの目標になった瞬間だったよ」
それは翌日の決勝戦。宮川選手と山元選手が優勝を争った。高い次元での戦いに大知さんは心が震えたという。そして宮川選手が勝利し、名人位をかけた戦いでは徳島の名手・立石宗之選手と対戦。これを撃破し、見事21代名人に返り咲いたのだ。
そして宮川さんはこの年に開催されたグレ釣りの大会で5冠を達成するという偉業を成し遂げたのである。
「どんな大会でも出てみると得るものは大きいよ。知識や技術、経験はもちろんだけど、お互い教えたり教えられる仲間という財産が得られるからね」
と大知さん。だから現在大会出場をしている人にはひとつひとつの出会いを大切にしてほしいという。
決勝の舞台へ
宮川明という明確な目標ができた大知さんは、豊さんとともにグレ釣りの練習にいっそう力を入れた。「負けたら次は絶対勝つ!」という思いの2人は、当時就航したばかりの渡船で広島から愛媛県の中島諸島まで毎週のようにグレ釣りへ出かけたという。
そこでは1分間に2〜3匹を釣る手返し向上の反復練習はもとより、コッパグレの中からいかに良型を釣り上げるか、そのための配合エサは何にするか、口ナマリをどう使いこなすかなど、山積した課題を次々と消化していった。そして仕掛けは、いつしかスーパーボールにカヤウキの2段ウキ仕掛けとなっていた。
1992年秋。昨年と同様、宇和島沖矢ヶ浜周辺で「第22回報知グレ釣り選手権」がはじまった。宮川との再戦を誓って出場したこの大会、技術的な課題のクリアはもちろん、できる準備はすべてやったという。
「サシエのオキアミは、事前にすべて頭とシッポをハサミでカットしておくとか念入りにしたね。そして最高のコンディションで大会に臨めたと思う。たぶんこのときが自分のグレ釣りの全盛期、ピークだったのではないかな」
大知さんはそう振り返る。
初戦シードの大知さんは、2回戦7.8kg、3回戦では9kg以上を叩き出し、準決勝戦では和歌山の名手・藤原義雄選手と対戦。大知さんはここでも順調にスコアを伸ばし、6.4kgの釣果で藤原選手を退けて決勝進出を決めた。
藤原選手は大知さんとのこの対戦で負けた悔しさが忘れられず、その後、和歌山では猛練習に励んだという。そして、打倒大知兄弟を糧に「ゼロスルスル」釣法の秘策を編み出したとのちに語った。
一方、豊さんも好調に勝ち上がり、3回戦では広島の名手・湯川武司選手と対戦。1kg以上の差をつけ勝ち進んだ準決勝では、同じ広島の松沢宏選手相手に11.3kgの釣果を上げ、堂々の決勝進出を決めた。
史上初、全国大会決勝での兄弟対決が決まった瞬間だった。
決勝会場は、戸島ホンドコのハナレ。遠投釣法を駆使する2人は、多くの観戦者が見守るなか、次々とグレを抜き上げていった。前半終了時、釣果はほぼ互角。しかし後半、豊さんが仕掛けトラブルでペースダウン。その隙に大知さんが一気に抜け出し、9.95kgという結果に。対する豊さんは6.63kg。兄弟初の報知グレ釣り選手権優勝は、兄・大知昭さんがその栄冠を勝ち取ったのだ。
兄に一歩譲った形になった豊さんだったが、「決勝での兄弟対決はまるで夢のようだった」と全力を出し切り満足気だったと当時の気持ちを教えてくれた。
そして大知さんは名人への挑戦のときを迎えた。再戦を誓い目標としてきた名人・宮川さんとの対戦だ。会場は、蒋淵沖「契島の東」。比較的遠浅で沖にシモリが多い地形は、はた目にも遠投釣法の威力が予想された。
「練習は十分積んだ。手返しにも自信がある。2段ウキ仕掛けもマスターした。なにより自分には勝ち上がってきた勢いと遠投釣法がある」
大知さんは高揚する自分を抑えつつも、挑戦者を迎え撃つように会場にそびえ立つ宮川さんに対し、負ける可能性は微塵も浮かばなかったという。しかし名人戦開始後すぐ、大知さんは昨年とは別人のような「宮川明」を見せつけられることとなるのだった。
【第5話】に続く
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