チヌのフカセ釣り黎明期から釣法開発にいそしみ、釣具開発、そしてトーナメントでの輝かしい実績とチヌ釣りに深く携わってきたチヌフカセ釣りの名手・大知昭(おおち あきら)さん。現在のチヌフカセ釣りスタイルの根本を築き上げたといっても過言ではない大知さんのチヌ釣りのルーツや数々の栄冠を手にしたトーナメントへの取り組みなどを連載で紹介します! ※プロフィールなど2014年のものとなっており、現在と異なるものもあります。また写真は主にモノクロとなります。ご了承ください。
トーナメントへ参戦
フカセ釣りをはじめて1年が経ったころ、大知さんは通い続けていた阿多田島や猪子島の波止ではいつも竿頭の釣果を上げるようになっていた。その釣果は周囲の常連から「猪子の帝王」と呼ばれるほどだったという。
そんなところへ宮島と阿多田島を会場に「G杯チヌ(G杯争奪全日本がま磯〈チヌ〉選手権)」の予選会が開かれることになった。
「釣りの大会とはどんなものなのだろうか?」。トーナメントのイメージがまったくわかない大知さんだったが、行きつけの釣具店の店主から「せっかくだから出てみないか?」とすすめられたのをきっかけに、「まあ、出てみようか」という程度の思いで1984年(昭和59年)、G杯チヌ中国地区予選大会(宮島、阿多田島会場)に初出場した。
大知さんはこの試合に波止での釣りの延長で、棒ウキの半遊動仕掛けと砂とアミエビのマキエをそのまま待ち込んだ。そして成績は宮島の磯で小型のチヌを2〜3匹。「時間も短いし、こんなものだろう」と釣果に納得していたが、帰港してみれば40cm級のチヌをスカリいっぱい釣り上げた人がおり、そのまま優勝を勝ち取ったのである。
阿多田島の長浦に降りたその人は、円錐ウキ仕掛けにヌカ主体のマキエで釣果を上げていた。大知さんにとってはマキエ、仕掛け、釣り方の違いに、磯でチヌがたくさん釣れること、そしてそれがいつも行っているフィールドであったことなど、ショックだらけの大会初出場となった。
「ホントにね、衝撃だったよ。そんな大きさのチヌが短時間でたくさん釣れるなんて思いもしなかったからね。でも一気に自分にチヌ釣りの火が燃え上がった日でもあったね」
初の全国大会へ!
大知さんは、さっそく市販の円錐ウキを買い込んだ。そして知り合いの船で磯へ渡してもらい、新しいスタイルでのフカセ釣りにはげむことに。負けずぎらいの性格が「次は予選で勝つ!」という目標を与えたのである。
そして宮島、阿多田島というフィールドが大知さんの釣技を磨き上げていくことになる。
「宮島、阿多田島の磯はね、遠浅で、沖にカケアガリがあって、そこを狙わないといけない。だから遠投が必要だったんだよ。ウキ釣りでも遠投が必要になることをこのとき学んだよ。そしてこれはどこでも武器になる! とも思ったね」
予選での勝利という明確な目的を持った大知さんは徹底的に磯で腕を磨き続けた。そして1年が経過し、またG杯チヌの予選会を迎えることになった。
迎えた1985年(昭和60年)G杯チヌ中国地区予選大会は、昨年と同じく宮島、阿多田島周辺で行われた。1年の成果が試されるこの大会で、大知さんは阿多田島内浦に磯上がり。朝マズメに45cm級など良型を数匹釣り上げるという成果を見せる。
「昨年の優勝者のぶっちぎりの釣果にはほど遠いけど、もしかしたら全国大会に行けるかもと思ったよね」
そんな気持ちで帰港して検量を受けるとなんと準優勝という成績。そして念願の全国大会への切符を手に入れた。まさかとは思った反面、1年間一生懸命がんばった結果が報われた感じで、うれしい気持ちも強かったと大知さんはこのときの気持ちを振り返ってくれた。
こうして予選を通過した大知さんは、翌1986年(昭和61年)、徳島県福村磯で開催された「第7回G杯争奪全日本がま磯(チヌ)選手権」へ初出場することに。当時の磯釣り界は、まさに「阿波釣法」全盛の時代。全国の名手が集うこの大会に、当時磯釣り後進地区と言われていた中国地区代表として参戦したのである。
負けから学ぶこと
徳島県福村磯はチヌ釣りのメッカであり、当時は阿波釣法全盛期。その釣法の発祥の地での開催だけに大知さんは大きく、そしてとても強いプレッシャーの中にいた。
「まわりを見ると(選手のほとんどは)阿波の達人ばかり。そんな中に自分がいること自体不思議な気がしたよ。部屋の一番隅っこに座って、目立たないようにみんなの話を聞いていたね」
当時の様子を、大知さんはそう語る。
しかし、そんな大知さんにはひとつの秘策があった。それは「カニ」。事前情報でエサ盗りが多いと聞いていた大知さんは、家の近くでサシエ用のカニを採集して持参していたのだ。阿多田島では、カニの甲羅を指で少し割ってサシエにしてよい釣果を得ていたこともあって自信があったそうだ。
こうして初の全国大会がスタート。1回戦の対戦相手は緊張のなかにあり、残念ながらよく覚えていないという。「ホントにガチガチだったからねぇ」と苦笑い。どこでもリラックスして過ごす現在の姿からは想像できないエピソードだ。
ちなみに現在の大知さんはトーナメントの会場では率先してほかの選手とコミュニケーションをとっている。「自分自身のためだよ」と大知さんは笑うが、実際はそれだけでなく、自分が動くことで、ほかの選手、とくに若い選手の緊張をやわらげたり、ほかの選手が話をしやすい雰囲気を作るため。大会の場で大知さんにいろいろヒントをもらったという人も多いはずだ。
話を試合に戻そう。
試合時の大知さんのマキエは、ヌカと当時発売されはじめたばかりの配合エサ、これにオキアミとアミエビを少し混ぜたものだった。仕掛けは、市販の円錐ウキに5Bの水中ウキの2段ウキ仕掛け。親ウキが軽くて仕掛けが飛ばず、波止など深い場所で、まずタナをとるのが癖になっていたことから、水中ウキを使うのが常になっていたのだという。
試合開始後、大知さんはまずタナ取り用のオモリを付け、水深を測ることからはじめた。底近くにウキ止めを調整し、ようやく釣り開始。いつもの釣りスタイルだった。そして状況は厳しかったが、なんとか数匹をものにし、2回戦へと勝ち上がることができた。
2回戦の対戦相手は九州代表でG杯常連の名手だったという。エサ盗りが多い状況となり、大知さんはついに「カニ」を手にした。これで3匹の釣果を上げる。「してやったり」と思ったものの、相手の選手はオキアミで5〜6匹の釣果を上げていた。
「相手の釣り方はね、マキエを足元に少し撒く。で、仕掛けは釣り座横の小さなワンドのゴミ溜まりに投入してたね。マキエとサシエをズラすというエサ盗りのかわしかたやチヌの活性が高いときはそれでも食うということを知ったよ」
しかし勝負は負け。初の全国大会出場は2回戦敗退という結果となった。しかしここからのできごとが大知さんに大会参加がいかに大切か教えてくれた。
大会参加の意義
試合に負けた大知さんは、その後は全国の名手たちの試合と釣りを観戦することに。決勝では、地元徳島の名手・村井稔さんの釣りに圧倒されたという。
オキアミ主体のマキエをバラけさせて打つ。仕掛けを張りながら流し込んでマキエとサシエを合わせる。竿の弾力を最大限生かした華麗な取り込み。そして全体のリズム。どれもが新鮮で、あまりにも釣りの次元が違うことに衝撃を受けたという。
「自分の中でチヌ釣りがフカセ釣りと融合したときだったよ」
大知さんは、初の全国大会をそう振り返る。そして大知さんは言う。
「大会では、負けた後の見学で得るものがすごく大きい。自分を変えることができるといってもいいよ。このときに決勝戦を見たことが(自分のフカセ釣りの)原点であり、あのG杯を通じて得たものは例えようがない」
そしてこのあと、大知さんの躍進がスタートするのであった。
【第3話】に続く
《大知昭 ヒストリーTOP》 第1話、第2話、第3話、第4話、第5話、第6話、第7話、第8話、第9話、第10話 、第11話、第12話、第13話、第14話、第15話、第16話、第17話