チヌのフカセ釣り黎明期から釣法開発にいそしみ、釣具開発、そしてトーナメントでの輝かしい実績とチヌ釣りに深く携わってきたチヌフカセ釣りの名手・大知昭(おおち あきら)さん。現在のチヌフカセ釣りスタイルの根本を築き上げたといっても過言ではない。そんな大知さんのチヌ釣りのルーツや数々の栄冠を手にしたトーナメントへの取り組みなどを連載で紹介します! ※プロフィールなど2014年のものとなっており、現在と異なるものもあります。また写真は主にモノクロとなります。ご了承ください。
名人とチヌ、そして釣りとの出会い
大知さんは昭和25年11月17日に広島県大竹市で定置網漁を営む祖父、底引き網漁を営む父という漁師家系に、男3兄弟の次男として誕生した。
「小さいころから自然が遊び相手だったんよ。チヌの習性の多くは、このころ海で遊びながら学んだね」
幼年期を大知さんはそう振り返る。
活発でアウトドア派だった大知さんは、近くの港で海に潜っては魚を水中鉄砲で捕ったり、浜辺で濁し釣り、港ではヤドカリをエサにした手釣りでチヌを釣って遊んでいたという。また魚市場では、季節や場所で魚の種類や数が異なり、春には宮島周辺に大量のチヌが回遊して来ることを知った。
竿を使った釣りは3歳年上の兄、英夫さん(現・大知渡船船長)が師匠だった。英夫さんが準備したタイコリールと切り出した竹竿のセットに大きな掛け鈎を付け、これを投げ込んでボラを掛けて釣ったのがはじめての釣りだったそうで、現在もその感覚を鮮明に覚えているという。
「あのタックルはシンプルがゆえに扱いが難しかったね。仕組みを理解してないとうまく仕掛けを飛ばせなかったからね。現在のキャスティングへの意識はこのとき培われたといってもいいよ」
大知さんは遊びながらチヌが居着く習性であること、雑食性であることを理解しはじめていた。
たとえば港の一角にあった生ゴミ捨て場には、台風の前になると生ゴミが海にこぼれてそれをチヌが食べに集まることなどを知ると、そのタイミングにはノベ竿とホンムシを持って出かけ、30匹近く釣り上げていたという。だが、このエピソードだけでも大知さんの釣りへのルーツが感じられるが、意外なことに大知さんが本格的に釣りにのめり込むのはもう少し先のことなのである。
野球が作った名人の基礎
「負けず嫌いで、ひとつのことを徹底的にやる性格」
大知さんは自分の性格をそう分析する。それは小学生になってから現れる。釣りそっちのけで鳩の飼育に凝っていたのである。その凝りっぷりは鳩レースにも出場するほど。そしてその鳩のエサ代を稼ぐため、早朝に雨風にもめげず牛乳配達のアルバイトをしていたとのこと。
「荷車に大量の牛乳を積んで、それを引いて歩いて配達してたね。坂道とか、道が悪いところもあったから足腰が必然的に鍛えられたよね」
そして中学生になってから再び釣りに……ではなく今度は野球に打ち込んだ。負けず嫌いの性格とひたむきさ、そして牛乳配達で鍛えた足腰が野球で開花。高校生になっても野球一筋
「青春時代は本当に野球だったね」
と大知さん。
就職してからも野球は続けており、社会人野球にも参戦。1番センターで広島県代表として天皇杯に2回出場という高いレベルだった。そのためこの時代、大知さんの頭の中には釣りの「つ」の字すらなかったのである。
「でもね、チヌ釣りのトーナメントを戦い切れるのも、遠投釣法も野球をやっていたからできたといっていいよ」
野球は打つ、投げる、走るという身体全体を使うスポーツ。そして9回(ときにはそれ以上)というイニングを戦い抜く体力と集中力が必要である。大知さんのトーナメントを戦い抜く集中力と体力は野球で培われたのだ。また1番センターというポジション、守備位置からも分かるように、足腰が強く、足が速く、肩が強かった。これが大知さんの代名詞でもある「遠投釣法」の下地となったのだ。
その鍛え上げられた身体能力がいまだ最前線を戦い抜いているベースなのだ。
趣味はパチンコ!?
体力的に社会人野球をそろそろ引退と考えた26歳の大知さんは、この年に結婚。そして新居購入と人生の新しいスタートを切っていた。
ここで今度こそ釣りに……と思いきや、大知さんに聞くと、野球を引退してからの趣味はなんと「パチンコ」だったという。
「もうね、どっぷりハマっちゃってたね〜。家のローンもあったから金欠の日々が続いてたよ。負けず嫌いで、ひとつのことを徹底的にやる性格が災いしたよ」
当時の自分を思うと現在も苦笑いしてしまうそうだ。
そんな当時の大知さんに、友人でもあるパチンコ店店主から「このままでは生活が破綻するから、お金のかからない釣りでもやったらどうだ?」と強くすすめられた。
大知さんは「それもいいかもな〜」と子どものころを思い出してノベ竿2本にハリスや鈎、ガン玉などを購入。自宅近くの波止でアオムシをエサに釣りを開始した。
もっとも「チヌが釣れるといいな……」と思ってたくらいで、狙っていたという感覚はなかったという。
人生を変えた1匹との出会い
「その日のことは今でも鮮明に覚えているよ」
大知さんはノベ竿仕掛けを作り、2本とも置き竿にしてアタリを待っていた。すると1本の竿が持っていかれそうなアタリをキャッチ! すぐさま竿を持ってアワセを入れると強烈な締め込み。そのまま一気に竿がのされてなにもできずラインブレイクしてしまったという。
あっけにとられていた直後にもう1本にも大きなアタリがやってきた。今度はのされながらもなんとかやり取りし、取り込んだのは38cmのチヌだった。
「けっして大きなチヌではないけど、このときの2匹のチヌの引きが、自分の人生を変えたね。38cmでこんなに引くんだったら取り込めなかったヤツはいったいどんなサイズだったんだろうかってね」
負けず嫌いで、ひとつのことを徹底的にやる性格がここで幸いした。その「ひとつのこと」が「パチンコ」から「釣り」になったのだ。
それからというもの、大知さんはパチンコへはすっかり行かなくなり、道具をそろえ、時間を作っては波止に通ってチヌを狙い続けたという。
運命の出会い!? フカセ釣りに目覚める!
ある日の釣りのこと。大知さんは自宅近くの波止でひとりの釣り人と出会った。
「自分は朝から日中を釣ってせいぜいチヌ数匹の釣果なのに、夕方にやってきたその釣り人は、少しの時間で10匹近くのチヌを上げたんだよ。その人は電気ウキ仕掛けで、ちょうどそのころ市販されはじめたアミエビを撒いて釣っていた。マキエを知ったときだったね」
とマキエとの出会いを語った大知さん。
「マキエを撒けばチヌがよく釣れる」。そう理解した大知さんは、全長が40cm近い手作りの棒ウキとタナゴ鈎にサシアミ、砂とアミエビのマキエという釣りスタイルに移行した。
そして大竹市沖に浮かぶ阿多田島と橋でつながる小さな猪子島の波止でチヌがよく釣れると聞いた大知さんは、竿、クーラー、マキエバケツのセットをもって連絡船に乗り、船が着いてからは波止まで走って場所とりをする日々が続いたという。
この釣り場では、大知さんは1号近い負荷の棒ウキの半遊動仕掛けで釣っていた。手順としては水深をオモリで測り、ウキ下を底から30cm上に合わせてから釣りをするというもの。ところが、潮が満ちて潮位が3mほど上がっても同じウキ下でチヌが食ってきたことに驚いた。
「もしかしてチヌはマキエにつられて底から浮いてくるのか?」
大知さん、29歳の春。フカセ釣りへの意識が芽生えた瞬間だった。
永遠の釣友にしてライバル
子どもの頃の写真に写っていた弟の豊さんもグレ釣り名人として活躍している。大知さんにとって「永遠のライバル」でもあり「釣友」なのだという
【第2回】に続く
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