チヌ釣り名手・大知昭 ヒストリー 【第5回】釣技向上時代とウキの誕生

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大知昭ヒストリー ロゴ

チヌのフカセ釣り黎明期から釣法開発にいそしみ、釣具開発、そしてトーナメントでの輝かしい実績とチヌ釣りに深く携わってきたチヌフカセ釣りの名手・大知昭(おおち あきら)さん。現在のチヌフカセ釣りスタイルの根本を築き上げたといっても過言ではない大知さんのチヌ釣りのルーツや数々の栄冠を手にしたトーナメントへの取り組みなどを連載で紹介します! ※レジャーフィッシング九州に掲載された内容を一部変更して掲載しています。プロフィールなど2014年のものとなっており、現在と異なるものもあります。また写真は主にモノクロとなります。ご了承ください。

大知昭/シマノインストラクター、マルキューアドバイザー、金龍鉤スペシャルプロスタッフ、キザクラフィールドテスター

引き出しの数の違い

「大知くんとは当時、グレ釣りに関する引き出しの数がちがったんやろうな」

宮川明名人は、のちに「報知グレ釣り名人戦」での挑戦者・大知さんに対しこう語った。

1992年10月、愛媛県蒋淵沖の「契島の東」で「第22期報知グレ釣り名人戦」がはじまろうとしていた。挑戦者は、選手権をほぼ毎試合10㎏近い釣果で勝ち上がってきた大知さん。釣り合いの勝負には相当な自信があったと大知さんは振り返る。

一方、宮川名人も乱打戦を想定した事前練習で11㎏の釣果を上げ、勢いに乗る大知さんへの備えを万全としていた。

張り詰める緊張感のなか、名人戦がスタート。試合当初、2人は10〜15m沖を同じように釣り、規定サイズくらいのグレを数匹ずつ取り込んだ。しかし、さほど経たないうちに、釣り場はエサ盗りだらけに。スズメダイ、ウマヅラハギ、ウスバハギにコッパグレ。アジは20cm近い良型というエサ盗りオンパレード。考えうるエサ盗りのほとんどが、2選手を一面包囲した。

大知さんはこのとき、得意の遠投釣法で勝負に出た。まず足元に大量のマキエを投入してエサ盗りを釘付けにし、仕掛けを投入する距離は1投ごと沖へ、沖へと延ばしていった。そしてウキに本命用のマキエをかぶせるように少量撒いて、グレに狙いを絞ったという。

「瀬戸内海での練習ではこの方法でエサ盗りをうまくかわすことができていたからね。ここ(蒋淵)でもいけると思ったんだよ。でもね〜。甘かったよ」

と大知さんは苦笑いしながら教えてくれた。そう、大知さんの読みの通りの展開にはならなかったのだ。

遠投した場所でもエサ盗りの活性が高く、サシエがアジの猛攻に遭ったのである。  一方、宮川選手は素早く状況を判断し、アジを集めてくれる大知さんをよそに、磯際やシモリ際に狙いを切り替えていた。

エサ盗りとグレの動きに注目し、グレが浅いタナへ浮いてくるタイミングを注意深く観察した。そして、マキエと仕掛けの投入間隔を少し空けて「時間差攻撃」を実践したのだ。

「グレが浅いタナへ浮いてくるリズムは、そのときどきで違う。マキエを撒くとすぐ浮くこともあれば、少し遅れて浮いてくることもある。1分以上経ってゆっくり浮いてくることだってある。この浮くタイミングを見計らってサシエをなじませるのがキーポイントだ」

これは当時を振り返っての宮川名人の弁である。

大知さんはこのときただただとまどったという。

「昨年の3回戦では高速回転の手返しを見せてくれた宮川さんが、このときはまるで真反対だったね。マキエを撒いてから仕掛けを振り込むまで時間をかけたりして、すごく繊細で緻密な釣りを展開していた。このときいろんなことをしていたのだとあとで知ったよ

大知さんは冒頭の引き出しの数が違うことをまじまじと思い知ったのだという。




宮川名人の猛攻

戦いの中で宮川名人はまず、1つめの引き出しを開けた。サシエにボイルを多用したのだ。

ボイルは硬いのでエサ盗りがかじった程度では鈎からそう簡単になくならない。だからアタリがあってもすぐにはアワせず、かじられながらでも少しずつなじませていく。そしてかじられた残りのエサにグレを食いつかせる。このアタリを宮川名人は待ったのである。

また、ガン玉の位置にも気を遣っていた。口ナマリにはG5が標準仕掛けだったが、フグやハギ類が多いと見るや、オモリを外した完全フカセでサシエの沈下速度をマキエと同等にし、目立たないようにしたのだ。このときのサシエはオキアミ生オンリーだったという。

ちなみに大知さんは仕掛けが速くなじむよう、ガン玉2〜3段打ちで釣っていたそうだ。

「対照的な釣りだったわけだよね。宮川さんの状況を読み取る力と、こちらの釣りを分析する力。なんだか完敗への道が築かれていたと思う」

と大知さんは振り返る。

さらに宮川名人は、次の引き出しを開けた。「3点釣法」である。宮川名人の持論には「魚は右回り」というのがある。

まず、エサ盗り用のマキエを手前に撒き、少し間を空けて、1回目のマキエの位置の右沖に2回目のマキエを撒く。これをリズムよく繰り返し、エサ盗りを集める。エサ盗りは右回りの習性を持っているから、やがて2カ所のマキエの間を群れが時計回りに回るようになる。本命用のマキエは、2回目のエサ盗り用マキエのあと、間髪入れずに左斜め沖に20mほど離して投入、そこにほぼ同時打ちで仕掛けを投入する。この方法は青物系のエサ盗りにはとくに有効で、右回りに回っているアジは、左沖の本命マキエにすぐ反応できないという。

《宮川名人の攻め方のひとつ》エサ盗りを手前に一度集めて、右沖に誘導。これで手前、右沖でエサ盗りの動きをコントロールし頃合いを見計らって左置きへサシエとマキエもいれる

大知さんはエサ盗りを遠投でかわそうとするだけだったが、宮川名人はエサ盗りの種類と動きに合わせて柔軟な対応策を繰り出していた。試合は終始、宮川名人がリードしたまま進み、そして名人戦終了。

結果は宮川名人が3,400g、21匹。挑戦者である大知さんは遠投&高回転手返しの釣りで挑んだが1,700g、11匹止まり。宮川名人の防衛成功で終わった。

上記の数に入っていない規定サイズ以下を含めると宮川名人は計40匹、大知さんは計13匹。実にトリプルスコアの結果だった。

「内海がメインの自分の当時の釣りはグレもチヌも同じ。沖で浮かせる釣りで、マキエはウキに直接かぶせる。でも宮川さんは、マキエをウキから少しずらして投入する、あるいは時間差で攻めるといった釣りをしていた。こんな釣りはそのときまで経験もなく、大いに勉強になったよ」

大知さんはそう振り返る。また、選手権決勝で大知さんに敗れ、名人戦を観戦していた弟の豊さんは「エサ盗りを味方にするか、敵にするか。マキエワークでうまく操れることを学んだ。自分がもし決勝で勝って名人戦に出ていても、兄貴と同じ結果だったろう」と語った。

大知さんは豊さんとともに「チヌとグレの釣りを一緒にしてはだめだ」と悟り、この後、両者を明確に区分した釣り方、釣行をすることとなる(さらに数年後、大知さんは年間を通じてチヌ1本で、豊さんはグレ1本で行くことを決意する)。

一方、宮川名人は当時のことを懐かしそうに、「まあ勇んできた相手にけたぐりをくらわしたようなもんや」とおどけてみせたあと「大知くんからは、釣りに対する熱心さ、集中力、あきらめない気持ちの大切さを学んだ」と語った。

また、「お互い気のゆるせる、励ましあえる仲間になれたきっかけの試合だった。口では表現しにくい、青春の1ページや」と言って遠くを見つめた。そして、宮川名人は最後にこう締めくくった。

「名手が名手であり続けるには、基本がまず第一。次に、人のアドバイスを素直に聞く姿勢が大切や」

後年、大知さんと豊さんは、宮川名人から釣りのリズムや取り込みの指導を受け、チヌ、グレとも飛躍的に釣技が向上したという。

ウキ誕生へ《ガラス製のパイプ》

翌1993年、大知さんと豊さんは「第23回報知グレ釣り選手権」にシード出場する。しかし大知さんは緒戦で惜しくも敗退。豊さんは準決勝戦で100g差で惜敗した。このときの優勝者は、同じエリアで腕を磨いていた広島県福山市(当時在住)の矢部裕之選手。

宮川名人との名人戦は、日振島の「大崎の地」で行われた。この磯は背後が広く高く、観戦には最適。大知さんは豊さんと名人戦を食い入るように観戦した。そして高場から試合の状況を見ていた2人は、ひとつの問題に気がついた。

宮川名人はスーパーボール(ビンビンボール。当時飛ばしウキとしてよく使われていた)に逆光玉のアタリウキを付けていたが、しばしば親ウキからアタリウキがうまく離れていかないのだ。

大知「なぁ? どうしたら仕掛けがよく抜けていくだろうか?」

豊「そうじゃなぁ……」

2人はその日から、糸抜けのよいウキのパイプについて日夜考えるようになったという。そんな日々の中で大知さんは意外な場所・職場でヒントを得ることになった。大知さんは品質保証部門に勤務しており、普段は白衣に身を包んで化学分析をする毎日だった。薬品を扱っての分析中、手に持ったピペットがふと気になった。

「ガラスは滑りがええなぁ……ん? これ! これをなんとかウキに使えんじゃろうか!?」

ガラス製ピペットの上の部分、すなわち薬品を吸い上げるためのキャップ取り付け部分は、単にガラス管を切っただけでなく断面が滑らかに反るよう加工されていた。この形状なら糸滑りがよく、しかも糸を傷つけない。

大知さんはただちに、短く加工したガラス管を作製しスーパーボールに取り付けた。唯一の不安は「なにかにぶつかると簡単に割れるのではないか?」だった。なにしろガラスは繊細。当然の不安だ。

そこで大知さんは試作品を何度も何度も床に叩き付けてみた。すると予想に反した結果が出た。重心の関係からガラス管部分が直接床に当たることはなく、意外なほど割れなかったのだ。

大知さんはひっそり試作品を作り、2カ月ほどグレ釣りに行った。ラインはおもしろいように抜け、グレがサシエを放しにくくなった。

「これはいけるんじゃないか! 勝てるウキになるんじゃないか! 画期的な発明だって自分で自分を誉めたね。そんなことはあとにも先にもまだこのときだけだね」

と当時を思い出して大知さんは笑った。

大知ウキGP

最新『大知GP』にも採用されているガラス製のパイプは、大知さんの職場でのひらめきから完成したものだ

同時期、豊さんは釣りに行く時間を削って「豊ウキ」を作っていたという。そして久しぶりに大知さんと同じ磯で竿を出したとき、大知さんのウキの糸抜けがどうもいつもと違うことに気付いた。大知さんの動作もどことなく怪しい。

豊さんは、大知さんの仕掛けを手に取り、こう言った。

「こんな(いい)ものを、ひとりで使ってもらっては困る!!」

こうして2人はガラス管を内蔵した飛ばしウキを共有するようになった。そしてほどなく、機能性と品のよさを追求した『大知トバシ』(通称、大知玉。別名、鬼太郎のおやじ)が完成した。

素材は強度と適当な比重を持つカリンを用いた。年輪の位置によって安定感や浮き方が微妙に違ってくるので、水面つらイチの状態になるよう素材選びには相当気を使ったという。色はパール一色塗り。「透明なスーパーボールは、海面でキラキラ光ってグレが警戒するのではないか?」との思いから、水面を泳ぐサヨリの腹の色に似せたのだという。

遠投性、安定性、抜群の糸抜けを誇った『大知トバシ』は好調だった。しかし、材料が高価なことから財布が続かず、しばらくして製作を断念したという。

大知トバシ

『大知トバシ』。『大知ウキ』に搭載されているガラス管を初めて搭載。現在ではプレミアもののウキだ

大知ウキ 試作

ガラス管はその後、ほかのウキに搭載されたが……次号でそのエピソードを紹介しよう

大知ウキ 初期

初期の大知ウキ。これについても次号で紹介!

《大知昭 ヒストリー》  No.1No.2No.3No.4No.5No.6No.7No.8No.9No.10No.11No.12No.13No.14No.15No.16No.17

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釣りぽ編集部
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釣りぽ編集部スタッフです。編集部ならではの企画記事や大会リポート、釣行リポートなどをお届けします。大会リポートについては大会関係者から送られたものを「釣りぽ編集部」として掲載していることもあります(※本文最後に報告者を記載)。
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