チヌ釣り名手・大知昭 ヒストリー 【第6話】兄弟でウキの開発

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チヌフカセ釣りの名手・大知昭(おおち あきら)さんのチヌ釣りのルーツや数々の栄冠を手にしたトーナメントへの取り組みなどを連載で紹介! ※プロフィールなどは2014年当時のもので現在と異なるものもあります。写真は主にモノクロとなります。ご了承ください。

大物を持つ大知昭
大知昭/シマノインストラクター、マルキューアドバイザー、金龍鉤スペシャルプロスタッフ、キザクラフィールドテスター

ウキへの目覚め

前回はガラス管をウキに搭載したことを紹介したが、その前から大知昭・豊の兄弟は自分たちの基本となるウキ作りに取り組んでいた。今回は前回より前に話を戻してウキ作りの秘話を紹介しよう。

数多くあるフカセ釣りアイテムの中でも、ウキに対して特別な思いを持つ釣り人は多いだろう。それは、魚との対話においてウキの果たす役割が大きく、重要な相棒だからだ。

現在、ガラス管内蔵の『大知ウキ(大知GP)』やキザクラから発売されている『大知遠投60』で知られる大知さんもウキに対しては当然、格別なこだわりを持っている。しかし、G杯全国大会に出場しはじめた1985〜1986年頃には、大知さんと弟の豊さんはまだよき相棒である「ウキ」に出会っていなかった。

当時は市販の円錐ウキ(4B〜5B)を使い、ほとんど水中ウキとコンビで使っていたという。その理由は「水中ウキが重くて仕掛けがよく飛ばせるから」というもの。当時の市販のウキは概して自重が軽く、単体ではホームグラウンドである広島県の宮島、阿多田島の磯で満足のいく飛距離が望めなかったのだ。また、波止での深場釣りが長かったこともあって、水中ウキと親ウキのコンビが2人の基本仕掛けだった。

しかし磯通いが続くにつれ、沖でチヌが浮き、2〜3ヒロ、ときには1ヒロでも食ってくることを知った2人は水中ウキ仕掛けに疑問を感じた。そしてその後の柱島一文字でのグレ釣りで、浅ダナ狙いにくわえて完全フカセの仕掛けを試すようになると、水中ウキはますます自分たちの釣りにとって余分なものと感じるように。

「うまく振り込まないと絡むというデメリットもあったからね。2人して円錐ウキのみの仕掛けに移行していったよ」

しかし遠投力がある円錐ウキは当時市販されていなかった。名人と呼ばれていた人の多くは、操作性がよい自作のオリジナルウキを使用していたのだ。このころから「満足のいくウキを自分で作ってみたい!」という思いが弟の豊さんの中で次第に強くなっていった。

一方、大知さんのウキに対する考えは異なっていた。現在の大知さんからは想像もできないが、当時は「ウキ作りに時間をかけるなら、(時間をかけずに)買ってそのぶん釣りに行くほうがいい」さらに「ウキなんか(釣果に)関係ない!」とさえ思っていたという。

「当時の自分はマキエや仕掛け操作など釣技に関心が傾いていたんだよ。だからウキは小さな存在だった。豊は違ってたね。ウキは釣りの中心部分となるものだと分かってたんだよ。自分が豊を一生のライバルと呼ぶのはこういう考え方の違いにあるんだ」

そう大知さんは教えてくれた。

ウキ作りへの情熱が高まる豊さんは、しばらくのち、知り合いを訪ね歩いてやや大きめのモーターと変速機を手に入れてきた。モーターにチャックを取り付け、チャックに心棒をはさみ、鉄製の心棒の受けも作成した。心棒受けは、その後すぐベアリング付きに改良した。元来工作好きで手先が器用、おまけに機械関係の仕事をしていた豊さんにとって、「ウキ作り機」作製はお手のものだった。

手製旋盤で豊さんのウキ作りがはじまった。本体は「桐」をおもな材料とした。桐材の中心に穴を開けて心棒を差し込み、チャックで固定。回転数を調整しながら、ナイフで削ったという。

「いくつかウキを削ると、ナイフはすぐ切れなくなったからね、幅が広い金切りノコを取り出し、歯の一端を研磨機でナイフ状に加工してウキ削りに使っていたよ」と豊さん。

ウキ内部のオモリは、当初は市販のナツメオモリなどを使っていたが、思うように浮力調整ができなかったうえに形も制約されていたので、鍋でオモリを溶かし鋳型に入れて自作したという。鉄製の鋳型も自分で作製し、数パターンのサイズができるよう凹部にバリエーションをもたせたそうだ。

「溶けた鉛を鋳型に流し込む作業のときは、溶けた鉛がハネてよく火傷をしたよ。だからよく健志(当時小学5年の豊さんの長男)に手伝ってもらってたね」と豊さんは楽しそうに振り返る。

だんだんと形になっていく「自分のウキ」。しかし塗装には悩んだという。そこで豊さんは大知さんも旧知であり、当時早くからウキ作りを手がけていた岡山の岩本敬昭さんに師事。「岩本さんの円錐ウキやハエウキには定評があったし、その出来はすばらしかったからね」と豊さん。

こうして岩本さんに教えを請い、ウキ作り全般や、特に塗装についてのノウハウを学んで、1987年、豊さん初の手作りウキ「豊ウキ」が完成した(写真1)。形状は名人ウキ各種をマネていろいろ作ったそうだが、もっともオーソドックスな円錐形(どんぐり型)に落ち着いた。

豊ウキ1
写真1/1987年に完成した初代豊ウキ

試行錯誤と進化

豊さんは大知さんとともに磯に出かけ、初代「豊ウキ」を使用した。すると課題が次々と浮かび上がったという。

まず思ったほどに遠投力がなかった。そして遠くに飛ばすとウキが見えにくかったという。

「トラブルも起こったね。当時はウキの中心に一般的な塩ビパイプを通していたんだけど、使用するうちにラインがパイプを削って溝を作り、ラインがその溝にはまり込んだんだよ」

と大知さん。

しかし作ってはダメ、作ってはダメを繰り返し、豊さんが作るウキを使用するうちに、大知さんのウキへの考えが変わっていったという。

「自分たちのホームグラウンドに適したウキが必要だって思ったね。自分は豊のウキ作りに対し、要望やアイデアを提供するアドバイザーって感じだったよ」

と当時を語ってくれた。

こうして1988年、改良型が完成した(写真2)。

大知ウキ2
写真2/「大知」の銘が入った最初のウキだ

塩ビパイプの破損には、下部に軟らかいウレタンパイプを接続して対処した。これは固定ヨウジが容易に装着できるようになって、ラインも傷つけない。一石三鳥の出来だった。塩ビパイプのトップには、これも削れ防止のためにビーズ玉を取り付け解消。現在でいうところの「リング」である。

問題だった遠投性のアップには、サイズを2回りほど大きくして自重を稼いだ。そして低重心にするため、オモリをウキの最下部に仕込み、形状はいつしか下部が膨らんだ「砲弾型」へと変化。この「砲弾型」はふらつかず、コントロールよく遠くへ飛んだという。

カラーも改善。これは2人の友人に試しに使ってもらったところ、その友人は視力があまりよくないので「遠くだと見えにくいから、トップのイエロー部分を広くしてほしい」とリクエストを受けたことによる。結果、胴の部分まで幅広いイエローのウキが完成した。

しかし当時、広島以外の地域では、すでに食い渋りに対応したスリムなウキが主流になりつつあった。そんななか、ずん胴で大きなウキ、くわえて胴までの幅広いトップカラー。

「はっきりいって、かっこいいウキではなかったと思うよ。時代の流れからずれていた感があったこの改良型のウキは、他地区の釣り人からいろいろ批判されたこともあったね」

と大知さん。

しかし2人は、見た目より機能性を最重要視した。遠投性、視認性、操作性に優れたこのウキに2人は満足し、ウキに「大知」の文字を書き込んだ。これが「大知ウキ」の初代となる。

そして1989〜1991年には初代「大知ウキ」は新しい「豊ウキ」へと進化する。コンセプトはより高性能で食い込みのよさの追求、そして対象魚種、すなわちチヌとグレへの使い分けであった。

 批判された見た目も改善。胴部分は木目を透かしたマホガニー色となり、品のよさが格段にアップ。ネーミングが「豊ウキ」となった理由については、特に「ない」とのことだったが、あえて聞くと「2人の大知のうち、どっちが作っているのかわかないから、わかるようにした」との豊さんの回答である。

おもにチヌを対象としたタイプの形状は、「砲弾型」をシェイプアップさせた「涙滴型」(写真3)。

豊ウキ2
写真3/チヌを対象とした涙滴型

トップはややとんがり帽子型で、中心から肩の部分まで、えぐり込むような曲線を描いている。肩がやや張っているので、安定感は抜群だ。胴から下はふっくらと大きな曲線を描き、小粒でもどっしりとした感じを受ける。トップのとんがりは、遠投時に影になり、光の反射面積が少なくなって視認性が向上したという。ただし水面から突き出た形となるので、いま振り返ると、ラインが風の影響を受けやすかったという。

一方、グレを対象としたタイプは、胴がスリムでチヌ用と比べて細長く、いわゆる「円錐型」に近い形状だった(写真4)。

豊ウキ3
写真4/グレを対象としたスリムタイプ

トップはチヌ用と比べて、やや平らな形となっている。チヌ用とは逆にトップを平たくし、面積を広くして視認性を追求した。

おもなチヌ釣り場である宮島、阿多田島のほとんどの磯は終日逆光に悩まされる。しかもグレに比べてチヌはより沖を狙うことが多いことから、ウキのトップの形状に違いが生じたのだろう。実際、2人は「涙滴型」を宮島、阿多田島で多用。

「とんがりがヒョコッと沈んだとき、アワセを入れた」

とのことだった。

トップの色も工夫した。当時全国大会で知り合った東海の名手、内田孝一さんの自作ウキは、オレンジ主体のトップカラーでよく見えた。豊さんは、内田さんの教えを受け、プラモデル用の蛍光塗料をカラーリングに用いた。

ウキ下部のウレタンゴムも工夫した。ゴムがむき出しでは、ウキ本体との隙間ができ、浸水の恐れがあった。低重心のため、この部分がよく磯に当たって欠けることもしばしばだった。豊さんは、2液性の接着剤でゴム周辺を包むように盛り上げて固め、浸水や衝撃からウキ下部を守った。

大知昭と大知豊のウキ
ウキ作りに熱中していた頃の2人

先を読んだ新しいアイデア

この頃になると、高性能な「豊ウキ」は、大知さんと豊さんの数多くの大会実績も後押しして、ちまたで人気の品となった。気安い友人には配ったりもしていたが、知り合いの釣具店数軒から「店に納品してくれないか?」と頼まれるようになった。

期待に応えたい豊さんだったが、サラリーマンの豊さんには月産30個が精いっぱいだったという。その後、豊さんはなにかと忙しくなり、ウキ作りに十分な時間がさけなくなって一時代を築いた「豊ウキ」は、1993年でその幕を閉じた。

2人はウキ以外にも、多くのフカセ釣りアイテムに創意工夫をこらしてきた。マキエシャク、尻手ロープ止め、オモリや鈎のストッカー、バッカンの滑り止め、マキエを押し付けるプレートなどなど。ホームセンターで見る日用品のすべてが釣りに使えるのではないかと思う日々が続いたという。

日頃から先進性をもってトーナメントに有効な道具を考えてきた2人は口をそろえ「道具で勝った試合も多かった」とこれまでを振り返る。そして、最後にこう締めくくった。

「勝つためには、先を読んだ新しいアイデアを常に考え、使えそうなものは、とりあえず試してみる。この前向きな取り組み姿勢がなくなったとき、勝利は遠くなる」

このウキがのちにガラス管を搭載し、現在まで続く大知さんの強力な相棒となるのである。

遠投する大知昭
1投するごとに次の展開を考えている大知さん

【第7回】に続く

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