チヌのフカセ釣り黎明期から釣法開発にいそしみ、釣具開発、そしてトーナメントでの輝かしい実績とチヌ釣りに深く携わってきたチヌフカセ釣りの名手・大知昭(おおち あきら)さん。現在のチヌフカセ釣りスタイルの根本を築き上げたといっても過言ではない大知さんのチヌ釣りのルーツや数々の栄冠を手にしたトーナメントへの取り組みなどを連載で紹介します! ※プロフィールなど2014年のものとなっており、現在と異なるものもあります。また写真は主にモノクロとなります。ご了承ください。
2度目の全国大会へ
全国大会を経験し、ひと回り大きくなって帰広した大知さんは、「フカセ釣り」の特訓を開始。大会で得たことも取り入れていった。
まずマキエのオキアミを倍増。ヌカはオキアミを飛ばすためのつなぎとした。そしてこれまでの底釣りから一変し、阿多田島の磯では浅いタナから仕掛けを沈めていく釣り方を実践。面白いように釣果がのびたという。
そしてこの年、徳山湾で開催されたG杯中国地区予選に再び出場、みごとに優勝を勝ち取り、連続してG杯全国大会への切符を手中にした。
「当時はフカセ釣りを深く扱った雑誌なんてないし、周囲から得られる情報はとても少なかったよ。だから一度全国大会に出て最先端の釣りを見ることはとても貴重だったし、見たことがそのまま予選での大きな武器になる。このことが2年連続の勝因となったね」
大知さんはそう回想する。
翌年の1987年(昭和62年)、大知さんにとって2度目の挑戦となる『第8回G杯争奪全日本がま磯(チヌ)選手権』は、場所を島根県隠岐の西郷湾に移しての開催となった。
「フカセ釣り」が少し分かりかけ、オキアミをサシエに遠投(現在の遠投釣法ほどの距離ではない)により釣果を上げていた大知さんは、大会に際し、前回のように気遅れすることも、舞い上がることもなかったという。
1回戦は40名の選手がマンツーマンで戦い、勝者20名+敗者の上位4名が2回戦進出というルール。
大知さんは釣果が伸びず初戦 敗退。しかし運よく敗者復活で2回戦へと駒を進めた。2回戦も苦しい展開ながら僅差で勝利をものにし、大会初日最後の試合3回戦へ。
「これまでの自分の生涯の中で、強く印象に残っている釣りのひとつ」
という3回戦の対戦相手は、前年度優勝者にして大知さんのフカセ釣りの原点となった徳島代表、村井稔選手だった。
「対戦相手が村井選手と決まって『しまった』とか『まずいな』なんて気持ちはなかったね。むしろ自分との差がどれだけなのか、自分の練習の成果はどれだけなのか、その力試しに胸を借りるという気持ちが大きかったよ」
大知さんはそのときを思い出すと現在でも胸が熱くなるという。
そんな思いで挑んだ決戦の場所は、西郷湾千畳敷。低い足場がだらだらと続く地磯は、折りからの強風でみるみるうちに高い波が足元を洗うようになっていた。村井選手は、サラシにマキエを入れ、そこへ仕掛けも流し込んで釣っていたが、磯の先端に出られないため、苦戦の様相であった。
対する大知さんは、阿多田島で培った遠投で、磯の後ろからサラシの沖を直接攻めることができた。昨年村井選手から学んだ釣りに自分の釣りを加味して会得した結果だった。これにより大知さんは前半順調に釣果をのばしたが、後半、ついに村井選手の反撃がはじまった。
大知さんの横では、昨年の覇者の華麗な竿の舞いが繰り広げられ、じわじわと詰め寄られてくる。ところが、ここで時間切れの試合終了。大知さんは、昨年勉強させてもらった村井選手への恩返しとなる、幸運な勝ちを拾ったのである。
そしてつかんだ準優勝
翌日。準決勝がスタート。
相手はこのとき初出場にして初日26匹という竿頭の釣果をたたき出した松田稔選手だった。ギャラリーの誰もが松田選手の勝ちを疑わなかった。ところが、前半も中盤にさしかかるころ、前日同様にやや沖合の中間付近を攻めた大知さんの竿に、中型のチヌが次々に掛かりはじめた。
そして後半になって潮が動き出し、場所交代で運よく潮下に入った大知さんは、瀬際にポイントを絞り、さらにチヌを追加。結果、堂々の決勝進出を決めた。
しかし、このとき決勝戦のためのマキエは、バッカンに半分しか残っていなかったという。松田選手との対戦に全力を出し尽くした結果であった。
こうして迎えた決勝戦は、徳島代表の井内政宏選手、隠岐代表の平井利武選手との対戦となった。開始早々、井内選手が50㎝超級を含む5匹を釣り上げ、圧倒的優位に立つ。平井選手も釣果を上げ、アタリのない大知さんは3番手となった。
大知さんには辛抱の釣りとなったが、3ラウンド目の釣り座は前日に竿を出している所なので釣る自信があった。そこまではマキエの量を制限していこうと、他の選手が磯に落としたオキアミを、割れ目に手を突っ込んで拾って付けたりもした。
そして3ラウンド目。井内選手はすでに突出した釣果で、もはや優勝間違いなし。大知さんは、温存したマキエを磯際に打ち込み、仕掛けがなじんだら水中ウキを引き上げまた誘う。マキエが少なかったため仕方なく選んだ磯際攻めだったが、食い渋りだした試合後半では、むしろ有効な手段となった。
狙い通り続けて2匹を仕留め、平井選手を抜き2位に浮上するが、その後平井選手も1匹を追加。熾烈な2位争いとなった。 試合終了直前、大知さんは執念の1匹を掛けて再度逆転、こうしてG杯準優勝の栄冠をもぎ取った。
「トーナメントでは普段と違う釣り方がある。試合中での釣りの組み立て方、そしてマキエのペース配分の大切さをこのとき学んだ」
と大知さんは振り返る。そしてこう付け加えた。
「できるなら村井さんと、もう一度竿を並べてみたい」
グレ釣りへの取り組み
G杯チヌのあと、大知さんはG杯グレの予選にもチャレンジ。しかしこのときの大知さんはグレという魚になじみがなく、宮島や阿多田島でチヌを釣っているとたまにヒットしてくる外道というイメージだったという。
「ウキ下がチヌより浅いくらいにしか思ってなかったね。本当は習性が違うんだから釣り方も変えないといけなかった」
と当時を苦笑いで振り返る。そう、結果は惨敗だったのだ。 しかし一緒に参加した弟の豊さんがなんと3位入賞で全国大会へのキップを手にした。つまり兄弟そろって競技の釣りにチャレンジ。早々に全国大会を経験したのである。
そして豊さんも大知さん同様に体験したことがない緊張感を味わってきたという。この経験がグレ釣りも身につけていかねば! と2人に決意させたと大知さんは教えてくれた。
さっそく2人は手に入る釣り雑誌を徹底的に読み込んだ。意外なようだが、当時の2人の周囲にはグレ釣りに精通した人がいなかったからだ。
「グレの釣技はもっぱら雑誌から情報を得たね。えっ? 意外? 誰でも最初はそんなもんだよ」
と大知さんは笑う。
そして2人は身近にグレ釣りが練習できる場所を探した。しかし当時の瀬戸内海でグレ釣り場はほとんど知られていなかった。「徳山湾通いか……」。そう結論づけたとき、豊さんが「そういえば、昔、会社の旅行で柱島に行ったとき、投げ釣りでグレが釣れたことがある」と思い出した。
すぐさま連絡船で広島湾沖に浮かぶ柱島(山口県岩国市)に渡り、連絡船の船長に小船を借りて、櫓を漕いで沖一文字波止に渡った。そしてマキエを撒くと、30㎝クラスまでのグレが沸いてきたという。
「ここで腕を磨こう!」 。2人のホームグランドが決まった瞬間だった。それからは2人並んで竿を出し、課題を持っていろいろ試したという。
まずは配合エサの種類を変えて、グレの動きを観察した。用意したのは、当時発売されたばかりの『グレパワー』(マルキユー)とチヌ用の配合エサ。並んで撒くと『グレパワー』のほうが圧倒的にグレの浮きがよかった。配合エサの種類や沈下速度、拡散の状態が釣果に影響することを、このとき2人は痛感した。
次はマキエ内のオキアミの量を変えてみた。また、アミエビを混ぜたもの、混ぜないものなどなどいろいろと試してみた。
仕掛けもいろいろ試してみた。道糸は2号、ハリスを1~1.2号、それ以下も試したが、グレをうまく誘導できないので根ズレのバラシが多く、結局1.5号になったという。
ウキは、チヌと同じ市販のもの。浮力は3B〜4Bで、投入しやすいように重くしようと水中ウキを付けていたという。
「思い出すとこのころはまだ、それほどウキにこだわりはなかったね」
と大知さん。
グレの食いがいいときには、並んで違う仕掛けを試してみた。ハリスの太さやウキ下など、ほかの条件を一緒にし、鈎の大きさや形を違えてみた。このときよかったのはスレ鈎。ヘラスレは抜群に食い込みがよく、その後長い間愛用のものとなったという。
オモリの位置や大きさも変えてみた。完全フカセと、中間にガン玉を打った仕掛け。完全フカセが有利だったが、このとき、現在では多用されている「口ナマリ」はまったく考えつかなかったという。
こうして夏から秋にかけて、2人で柱島に通い続けた。波止は足場が高いので、グレの動きがよく見えた。「チヌとグレは違う」ことを、2人はこのころ理解した。
並んで同時にいろいろと試せたので、どちらの仕掛けがよく食うか、早く食うか、正解が出るのが早かったという。
「あの一文字波止は2人のグレ釣り道場だったね」
そこには現在でもたまに釣行してみるのだという。そしてグレ釣りに挑戦したことが大知さんにさらなる出会いとレベルアップをうながすことになっていったのである。
〜第4回目に続く〜
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【第4話】に続く
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