チヌフカセ釣りの名手・大知昭(おおち あきら)さんのチヌ釣りのルーツや数々の栄冠を手にしたトーナメントへの取り組みなどを連載で紹介! ※プロフィールなどは2014年当時のもので現在と異なるものもあります。写真は主にモノクロとなります。ご了承ください。
変化していく立場
2001年以降になると、チヌ釣りのトーナメントが多く開催されるようになってきた。大知さんも出場が可能なものにはすべて挑戦するつもりだったが、このころになると、純粋にプレイヤーとして優勝を目指せる立場ではなくなっていた。
「競技の釣りをはじめたころは大会だけに時間を費やすことができたんだよね。でもチヌ1本に絞ってからは大会自体あまりなかったから、その時間を雑誌やテレビの取材を受けていたんだよ。それで今度はチヌ釣りの大会が多くなって、大会、取材どちらもがんばらないといけなくなった。大会へ出る時間の捻出も大変だったけど、取材が神経を使ったよ。下見、予備日なしの『一発勝負』になることも多くてね。記者さんやカメラマンさんを手ぶらで帰らせるわけにはいかないじゃない。こっちの都合に合わせてもらってるんだしね。でもこの経験が自分を相当成長させてくれたよ」
大知さんは当時を振り返る。意外に知られておらず、事実を知ると驚く人も多いが、大知さんは当時(現在もだが)は会社勤めのサラリーマンだったのである。当然休みは決められているので「よく釣れているから」と思い立って釣りに行けるわけではないし、連休もとりにくい。
はじめは大会出場のみだったので「練習」に時間を費やせた。そして大会がなく、取材がメインとなった期間も時間は「下見」「予備日」に使えたが、大会と取材がともにやってくるとどちらもそうはいかない。大知さんの言う「一発勝負」になるのだ。
しかし必要とされる以上は全力で応えるのが大知さんの性格。またメーカーのテスター、インストラクターという責任感もある。この姿勢は現在でも変わりはなく、時間がないなかでもミラクルな1匹を生み出す原動力となっている。
「負荷をかけると人間やるもんだよ。わはは」
大知さんはそう言って豪快に笑う。そんな忙しいなかで迎えたのが「第2回マルキユーカップチヌ全国決勝大会」。舞台は前年と同じく広島湾。
第1回を優勝し、チャンピオンとしてこの大会に挑む大知さんにまたも「優勝して当たり前」というプレッシャーがのしかかる。そして違う面でのプレッシャーものしかかってきた。それは「名手」としての立場だ。
若手選手からすればプレイヤーとして実績を上げ、釣り人としても活躍する大知さんはいわば超えるべき、いや超えたい山。胸を借りるつもりで試合では全力でぶつかれる相手であるし、もしも勝ったならば誇ることができるし自信にもなる。逆にそれを受ける大知さんは決して負けは許されない。
「負け」が意味するものが大きく変わってきていたのだ。
「かつて自分が思い切りぶつかっていった先輩方や、名手たちの気持ちが少し分かった気がしたよ。追われる気分というのかな。でもそれも楽しんでやろうと思えたね。これはきっとチームアクアがあったからだと思う」
大知さんが代表を務める「チームアクア」は楽しく釣りながらも互いに競って磨き合う釣りクラブ。ふだんの釣りの中に試合形式を取り入れたりして自然な流れで競技の釣りを身体に覚えさせることができていのだ。こうして第1回とは違う緊張感を持って大知さんは第2回大会へと挑んだ。
若手の台頭
この大会は2002年の4月20日と21日の2日間にかけて全国各地(秋田・新潟・福井・兵庫・岡山・広島・山口・徳島・大分・佐賀)の予選を勝ち抜いた27名に第1回大会の覇者である大知さんを加えた計28名が広島県大竹市の宮島・阿多田島で優勝を争うというもの。
スケジュールは初日が予選リーグ。4名1組の計7ブロックに分かれ総当たりで試合(1試合90分・15分ハーフ、勝ち点制)し、各ブロックの上位1名計7名+ワイルドカード1名(2位中もっとも好成績の選手)の計8名が準々決勝に進出する。
2日目の準々決勝以降はマンツーマンのトーナメント方式(1試合120分・60分ハーフ)。各試合25㎝以上のチヌ9匹までの総重量で競う。ちなみに検量後はすべての魚をリリースするというものだ。
大知さんは前年に引き続いて遠投力を発揮し、順調に勝ちを重ねていった。
「プレッシャーは正直感じていたけど、第1回のときとは違ったね。なんだろう緊張感が心地よかったって感じかな」
と大知さんは教えてくれた。そして見事翌日のトーナメントへと駒を進めた。決して楽に勝ち上がったわけではないが、周囲の評価は「楽勝」「順当」というもの。そのプレッシャーは計り知れない。
一方で、若手の成長が目立った大会だったとも大知さんは振り返る。その筆頭が岡山県の南康史選手(現サンライン、がまかつフィールドテスター、マルキユーフィールドスタッフ)だった。
1999年にG杯チヌに初出場し初優勝。その翌年も優勝で連覇を飾り、勢いに乗ってこの大会へと参戦していた。南選手も予選を勝ち抜き、トーナメントへのキップを手にしていたのだ。そんな当時の南選手を大知さんはこう振り返る。
「南くんの勢いがすごかったのはよく覚えているよ。前々から知っていたし、対戦できたらいいなという思いもよく覚えている。だから初日終わっての懇親会でのトーナメントのクジ引きでブロックが分かれたときは不思議と『対戦するなら決勝だな』って思った。そして彼は見事に勝ち上がってきたね」
若手の勢い、優勝して当たり前というプレッシャー、そしてはじめてとなるチャンピオンとして相手を迎え撃つという感覚。大知さんは高ぶる気持ちで翌日を迎えたという。
激闘の果てに
2日目。あいにくの雨模様のなかトーナメントがスタートした。ここからは「敗け」イコール大会終了である。リーグ戦以上にミスが許されない。その緊張感が海へ伝わったのか、かなり渋い状況だったと大知さんは振り返る。
「前年より魚の食いが悪くて1匹出すのにかなりシビアだったなっていう記憶があるよ。どの試合も接戦になるだろうなって。実際に僅差の試合が多かった。だから決勝戦の会場がどこになるかなって考えてた」
決して目の前の勝利を甘く考えていたわけではない。しかし大知さんの気持ちはすでに決勝へと向けられていた。実際に接戦ではあったが、大知さんは勝利して準決勝へと駒を進めた。そして南選手も勝ち上がってきていると知ったとき、南選手との試合のイメージが浮かんできたという。
こうして準決勝を迎えた。さほど気温は低くないものの、吹き付ける風が非常に強く、穏やかな広島湾内にも波立つほどだったという。この天候に釣果が懸念されたが、そこは強敵を打ち破ってきた強者たち。大知さんは広島の強豪選手、南選手は山口の強豪選手にそれぞれ勝利して、最高の舞台で顔を合わせることになった。
「これから大一番! って感じだったけど落ち着いてたよ」
決勝戦に向かう船で大知さんは自分でも不思議な落ち着きだったという。
一方で南選手は「大知さんに勝つことが目標です」とテンションは最高潮だったと当時を振り返って教えてくれた。
決勝がはじまる頃には風雨ともに小康状態となり、コンディションもまずまずとなった。決勝の舞台は「宮島の渚」。チヌの実績が高い場所ではあるが、ヒットポイントまでは距離があり、基本的に遠投勝負になる。「大知有利」の予感がギャラリーにもあったが、南選手もこの日のために遠投できるよう、支度を整えてきたとのこと。
「ヒジが壊れても追いすがるつもりでしたよ」と南選手は当時を振り返って教えてくれた。
こうして午前9時40分。頂点を決めるホイッスルが鳴った。先手を取ったのは大知さん。開始10分後に35cm級のまずまずのサイズをキャッチして南選手にプレッシャーを与える。しかし午前10時を過ぎてから南選手が怒濤のラッシュ。丁寧にマキエを遠投して同じポイントに集め、約30分間に4連発。周囲のどよめきを誘う。
南選手はこのときのリードが自分に落ち着きを持たせて大知さんにプレッシャーを与えたのでは? と振り返る。
午前10時40分に場所を交替して後半戦がスタート。前半、大知さんが苦しんだポイントだけに南選手も釣果の伸び悩みが心配されたが、後半戦早々に5匹目を掛けて4匹差とする。このまま逃げ切りか……と思われたが、大知さんも負けてはいなかった。連続で2匹キャッチし、その差を2匹に詰めてくる。しかも良型をそろえておりウエイト差も一気に詰める。
サイズ次第ではあと1匹で南選手のウエイトに届くかも……というところで南選手が3連続でチヌをヒット。大知さんも1匹追加するが、ここでタイムアップ。南選手の優勝が決定した。
「振り返ってみると、この大会は潮が味方してくれたので勝てました。でも大知さんと決勝を戦えて本当によい経験でしたね。隣りで釣りをされると威圧感がものすごいんですよ。さすがは名人ですよね」と南選手はそのプレッシャーを受けたことがよい経験になったと教えてくれた。
一方、
「悔しいのもあったけど、若い選手が出てきたことがうれしかった。自分もまだまだだ! って思えたからね」
とは大知さん。このあとも激闘まだまだ続いていくのであった。
【第12話】に続く
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